大学教育は生き延びられるのか?

 

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一部抜粋

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私が在職中にとった統計でわかったことは「シラバス通りに授業をしているかどうか」ということと学生の授業満足度の間には統計的に有意な連関がないということでした。それ以外のすべての質問は学生の授業満足度と相関がありました。「時間通りに授業を始めるか?」とか「板書が見やすいか?」とか「十分な準備をして授業に臨んでいるか?」といった問いは満足度と相関していました。でも、全部の質問の中でただ一つだけ何の相関もない質問がありました。

それが「シラバス通りに授業をしているか?」です。学生たちはシラバス通りに授業が行われることに特段の重要性を認めていない。それはアンケートの統計的処理の結果でも、僕の教壇での実感でもそうです。

だから、「シラバスを細かく書け」という文科省からの命令を僕は無視しました。だって意味がないんだから。いやしくもこちらは学者です。論理的にものを考えるのが商売です。シラバスを事細かに書くと授業効果が上がるということについて実証的根拠があるなら、それを示してくれればいいだけの話です。それを示さずに、もっと細かく書けとか英語で書けとか同僚の教員同士でチェックし合えとか、どんどん作業を増やしてきたのです。

僕が教務部長のときにうちの大学のシラバスに「精粗がある」という理由で助成金の減額が告げられました。これは教育行政として自殺行為だと僕は思いました。

シラバスを書かせたかったら「それには教育効果がある」という理由を示せばいい。何の教育効果があるのか命令している文科省が知らない作業を現場に頭ごなしに命令して、違反者に処罰を課す。それも「助成金の減額」という「金目の話」に落とし込んできた。僕はこれを「教育行政の自殺」だと言ったのです。仮にも大学教育ですよ。

文科省は「大学の教員というのは『金を削る』と脅したら意味がない仕事でも平気でやる生き物だ」という人間観を公然と明らかにしているわけです。財務省あたりが言うならわかりもするが、教育行政を担当する省庁が「人間は金で動く」という人間観を本人も信じ、人にも信じさせようとしていることを少しは恥ずかしいと思わないのか。まことに情けない気持ちがしました。

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文科省にたてつくと,運営交付金(私学は助成金)を減らされるというのは,本当の話。

 

なんだかんだ,いろいろ文句を付けてきて,はっきりとは交付金を減らすとはいわないが,こちらは忖度するしかない。

 

別件だが,不祥事があると交付金は減らされる。(懲罰?)

 

内田先生は,アドリブ上等の高級漫談みたいな授業だったんだろうな。それはそれで面白いと思うけど。

 

シラバスをほとんどの学生は見てないのは確かである。特に理系はカリキュラムがほぼ決まっており,選択科目の自由は正直あまりない。

ただ,どんな授業をするかの,簡単な内容ぐらいはあったほうがいいかなとは思う。

 

シラバスの書き方はかなり細かく注文があり,こんな項目いるのか?とは思っている。(この辺のおかしさはまた紹介したい)

 

内田先生が助成金を減らされた神戸学院大(でしたか?)のシラバスってどんなもんだったんだろうか?